コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.678

◎「白牡丹 月夜月夜に 染めてほし、豊玉」、これで鬼アスロン開催か (その5)
〜近藤勇の江戸道場、伝通院の近くで男同士が貧乏所帯〜

 この試衛館、天然理心流の江戸道場、の所在地は特定されていません。子母沢寛は小石川小日向柳町、三好徹は小石川小日向町、司馬遼太郎は小石川柳町、他にも市ヶ谷柳町、甲良屋敷、加賀屋敷、二十騎町など諸説さまざまです。この特定されていない諸説を総合的に判断して、私なりの所在地は、小石川柳町、今の文京区小石川1丁目の柳町小学校の燐辺にある「柳町子供の遊び場」と踏んでいます。

 この辺り、幕末の江戸切絵図で見ますと、広大な伝通院の境内の西口、通用門らしき出入り口があり、小石川の流れを渡ると土方竜三宅が狭いながらも屋敷を構えています。さて、京の池田屋襲撃事件などで一世を風靡した新撰組の局長、近藤勇の昔の江戸道場がなぜ所在地が特定できないのでしょうか。答えは簡単、一斉を風靡したとは言え、江戸時代の昔話を聞かれた場合、恥ずかしくて近藤も土方もその他の誌衛館の連中は誰も口ごもっていたのです。

 それぐらい、近藤一派の江戸での暮らしぶり、生活レベルは悲惨、貧乏だったのです。おそらく、貧乏もさることながら、剣術指南業としてまっとうな門弟が入門してこない事が剣術家としての自尊心をブっ壊していたのでしょう。

 こんな近藤一派で何とか稼ぐ手立てを持っていたのが、歳三です。歳三が江戸市中から近辺を石田散役で行商して稼ぐ儲けが、近藤一派の道場運営費や射食費に費やされたと思いますね。そんな、歳三の行商先で道場の近所、伝通院が徐々に最良のお得意先になって来ます。最初は、伝通院の寺侍、誌衛館に稽古に来る門弟相手の行商が、だんだんと伝通院に通う大奥の女官たちに矛先が変わってきます。歳三の女たらしの才覚が発揮され始まりました。


 <走談家>      藤田 俊英 (05/09/20)





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