コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.677

◎「白牡丹 月夜月夜に 染めてほし、豊玉」、これで鬼アスロン開催か (その4)
〜当時の関八州で流行、剣術流派は馬庭念流と甲源一刀流〜

 散薬から話をそらします。小川町役場で刊行したての小川町史から土方歳三に関連した記述を見つけていますので、紹介します。「第3編 近 世」の第4節が「馬庭念流と甲源一刀流」となっています。よく知られているように、歳三は石田散薬等を行商する傍ら、剣術修行にも励んでいます。ですから、行商の際には、薬箱を担ぎ、一方、剣術道具、竹刀や木刀や面小手を携えた、と伝わっています。

 行商先の土地土地の剣術道場を訪ね、その道場に剣術指南を申し込んで、道場で竹刀を交わし、帰り際に、その指南料として石田散薬を置いたようです。あるいは、指南の際に傷つけた道場の門弟たちに、石田散薬を与え、熱燗の酒とともに一気に飲ました、ようです。やはり、効き目はあったようです。それはそうでしょう、効かないと、そこの道場の門弟たちに袋叩きに合いますよね。

 当時の関八州で、盛んだった剣術の流派が馬庭念流と甲源一刀流です。馬庭とは今の上州鉄道に馬庭と言う駅があり、その駅の近くに養気館と言う道場が現存し、実際に門弟たちが剣術の修行をしています。予断ですが、今の門弟の中には外国人もいますね。この馬庭念流は武士階層に広まっていました。一方の甲源一等流は、武士と言うより農民層に広まっていました。

 小川町近辺では甲源一刀流の門人が多く、文久3年の徳川幕府による浪士隊、清川八郎が献策し近藤勇、土方歳三さらに芹沢鴨らが参加した、に8名もの甲源一刀流の農民門弟が参加しています。それで、私の勘では、これら8名の門弟と歳三は甲源一刀流の道場で、竹刀を交わした間柄だったのです。これが事実となると、あの浪士隊が集まった江戸は小石川の伝通院、この当たりにあったと言われる、近藤勇の道場、試衛館が気にかかります。


 <走談家>      藤田 俊英 (05/09/15)





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