コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.594

◎土方歳三鬼あしフェスタを開催します その4
「近藤勇道場の経費を捻出するため絹の道を売り歩く」
 2月1日、「新選組!」の第4回目の放送では万延1(1860)年3月3日の桜田門外の変、井伊大老の暗殺が織り込まれていました。安政5年(1858)年に大老に就任した井伊は日米修好通商条約を米英ロ蘭仏の五カ国と調印、神奈川、函館、長崎の3港を開港し、貿易を開始しました。その頃、日本の輸出品は生糸、銅、茶などで中でも生糸は輸出の花形と言われ、新しく開港した横浜に長野、群馬、埼玉や多摩地方からいっせいに生糸が集まっていました。

 これらの生糸を馬の背に乗せて運んだのが「絹の道」、今も八王子市の北野台、大塚山公園から鑓水地区にかけて約1`が昔ながらの地道の姿で残っています。この道を知ったのは昨年6月、鬼あし多摩川100`のコース下見でヘトへトになりながら、多摩川にかかる関戸橋から大栗川を遡って、下柚木から都道160号の野猿街道を登っている時でした。手にした地図のコピーに「絹の道資料館」と言う記載を見つけました。

 その資料館を訪れたのは8月2日の暑い土曜日でした。京王相模原線の南大沢駅から大栗川に出て、上流に向かい鑓水に着くと、資料館の案内が出ていました。資料館には私以外に客はいませんので、じっくりと管理人さんと話し込めました。私の疑問点はただ一点、「土方歳三は絹の道を行商して歩いたか?」です。もちろん、資料館にそんな事実は残されていません。ですが、話し合っている内に、その可能性が高いことが分かってきました。

   絹の道ができたのは万延元年前後、その頃の歳三は近藤勇の道場、試衛館の食客でありながら石田散薬の行商に励み、道場の運営経費を捻出していました。できるだけ薬を高く売りたい、そう思った歳三は生糸の商いで潤っていた鑓水地区の豪商を訪ねて、商い上手に儲けたはずです。ついでに、村の娘さんともねんごろな間柄になったかもしれません。そんな仮説を描きつつ、新春の木漏れ日がさす「歳三シルクロード」を試走しました。

 <特定非営利活動法人・市民歩走者学会(CReW) 会長>      藤田 俊英 (04/02/09)





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