コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.487

◎新撰組の副長、土方歳三は法人再生請負コンサルタントでした その8
〜3人局長制度は大きな成果を上げて、近藤派の一方的拡大に繋がりました〜
 で、歳三が芹沢に新撰組の今後のビジネスモデルを問いただしました。芹沢のビジネスモデルには、経費の調達に甘さがありました。京の豪商を脅かせば良い、と高を食っていました。歳三はスポーツボランティアな志に脅しは相応しくない、と芹沢モデルを一蹴し、歳三モデルを対案に出しました。この歳三モデルでは、新撰組の当面の機能・役割を三つに区切っています。この区切りを表す語彙が「局」でした。そこで、三局長制が誕生。芹沢派から芹沢と新見、近藤派から近藤が局長に就任です。

 芹沢が担当したのは外務、会津藩との折衝や外部からの新撰組活動資金調達です。この時点では、新撰組を代表する顔は芹沢です。近藤や土方などは、世間にまるで名前が知られていません。そこで、土方は新撰組に取って筋の良い資金調達源の開拓を芹沢に任せました。芹沢は酒が入ると、凶暴な男ですが、素面の時は国を思う働き者のいい男でした。

 近藤派は新規隊士の募集に邁進しました。なんせ13人では話になりません。京や大坂近辺から腕の立つ隊士を早急に集める必要がありました。剣術道場などを回り歩いく行商セールス的な根気のいる任務ですが、行商のプロの歳三が勧誘の要点を教え込んで、新規隊士の頭数が増えていきます。新規隊士らは不安な思いで入隊しますが、勧誘した近藤派が甲斐甲斐しくお世話をするので、自然と近藤派に融和していきます。

 芹沢の資金調達はまあまあの成果を得ました。官費的な資金として会津藩から、民間資本の大坂商人、鴻池屋から献金が来ました。歳三が見立てたように、3人の局長はそれぞれの任務を遂行し、期待した成果を上げました。その結果、芹沢派は相変わらず5人のままでしたが、近藤派は8人から百名近い大派閥に拡大し、しかも潤沢な活動資金を手にしていました。

 <千客万来の日本スポーツ・ボランティアソシエーション>  藤田 俊英 (02/06/14)





前のページへ戻る