コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.486

◎新撰組の副長、土方歳三は法人再生請負コンサルタントでした その7
〜新撰組のビジネスモデル論争、歳三モデルに芹沢モデルが敗退しました〜
 たった13人が清川に反旗を翻しました。水戸の芹沢派5人と近藤派の8人です。資金のない近藤派にとっては大英断でした。芹沢派はその点、度胸がありました。生活費だけでなく遊興費に至るまでを、京の豪商から強請上げていました。そんな芹沢派を歳三は、当面のボランティア事業パートナーとして大事に扱いました。ただし、ある時期までです。これが、新撰組局長制度に繋がります。

 芹沢鴨は水戸の脱藩浪士ですが、その実兄が水戸藩の京屋敷詰め公用方です。芹沢を通じて京の公用方ルートで京都守護職の会津藩にアプローチを計りました。無政府状態の幕末の京都で近藤派がスポーツポランティアな剣客ビジネスを起業するには、このシナリオしかありませんでした。近藤派の懐具合は寂しく、衣食に事欠く有様でしたが、歳三が家伝の石田散薬を行商して8人の腹を満たしていました。

 アプローチは成功し、会津藩は芹沢からの提案を呑みました。取りあえず、13人が京都守護職会津中将様御預・新撰組を名乗ることが許されました。但し、まだ会津藩から確たる新撰組の事業経費を捻出する事はできません。相変わらずの、貧乏所帯でした。会津藩から、ついては組頭を決めるようにとの沙汰が下りました。芹沢鴨は当然、組頭には自分しかいないと安心を決め込んでいました。

 で、歳三が芹沢に新撰組の今後のビジネスモデルを問いただしました。芹沢のビジネスモデルには、経費の調達に甘さがありました。京の豪商を脅かせば良い、と高を食っていました。歳三はスポーツボランティアな志に脅しは相応しくない、と芹沢モデルを一蹴し、歳三モデルを対案に出しました。この歳三モデルでは、新撰組の当面の機能・役割を三つに区切っています。この区切りを表す語彙が「局」でした。そこで、三局長制が誕生。芹沢派から芹沢と新見、近藤派から近藤が局長に就任です。

 <千客万来の日本スポーツ・ボランティアソシエーション>  藤田 俊英 (02/06/13)





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