コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.485

◎新撰組の副長、土方歳三は法人再生請負コンサルタントでした その6
〜新撰組なのになぜ、近藤組頭でなく近藤局長か、この疑問に悩んでいました〜
 さらに、幕末の桑名藩士は京の都で新撰組と一緒に勤王倒幕派を相手に戦っています。さらに、鳥羽伏見の戦いの後、関東の各地で土方歳三は新撰組の残党と桑名藩士らを率いて明治政府軍に抵抗しています。千姫と新撰組と桑名のキーワードが本州横断110キロウルトラランニングと企画中の「新撰組・土方歳三鬼あしRUN&WALK」を結びつけました。。

 新撰組に話を戻しますと、私は前々から腑に落ちない事があります。近藤勇は新撰組局長です、隊規は局中法度と云います、組なのになぜ局長、局中法度なのか、近藤勇組頭に組中法度ではいけなかったのか?この点について、歳三の墓前で同年輩の女性ウォーカーと話を続けている内に、解答らしき物を得ることが出来ました。歳三のシナリオだったそうです。。

 文久3年2月8日、234名の浪士が江戸の伝通院を出て、中山道経由で京に向かいました。目的は京での将軍家警護です。腕っ節の強そうな浪士たちが京に着いたのは、2月23日夕方でした。着くとすぐ、集合がかかり、思いもかけない方針転換を発せられます。これは浪士組の首謀者、清川八郎の裏切りなんですが、大多数の浪士たちは仕方なく清川に従います。。

 たった13人が清川に反旗を翻しました。水戸の芹沢派5人と近藤派の8人です。資金のない近藤派にとっては大英断でした。芹沢派はその点、度胸がありました。生活非だけでなく遊興費に至るまでを、京の豪商から強請上げていました。そんな芹沢派を歳三は、当面のボランティア事業パートナーとして大事に扱いました。ただし、ある時期までです。これが、新撰組局長制度に繋がります。

 <千客万来の日本スポーツ・ボランティアソシエーション>  藤田 俊英 (02/06/12)





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