コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.480

◎新撰組の副長、土方歳三は法人再生請負コンサルタントでした その1
〜小石川柳町、伝通院の裏門前の近藤道場は今も昔もカラスが天下鳴き〜
 取りあえず、東京シティロードレースが終わって、本業のライター稼業に精を出しています。大抵の方はご存じないと思いますが、山海堂から「土木施行」という歴史ある月刊誌が発刊されています。毎月、その紙面見開き2ページで「コンサルタント列伝」と題した連載を綴っています。歴史上の人物1人を3ヶ月に渡り、私なりにソリューションを切り口に、いつの世も悩みの種は尽きないをテーマにして、今までに村田蔵六、阿部晴明、藤堂高虎、山之内一豊の妻、石田三成を登場させました。

 それで、次回から新撰組副長の土方歳三を書いてみることにしました。生まれた日野の高幡不動尊や石田寺の墓所や生家などを訪ねて、いよいよ江戸の町道場、近藤勇が天然理心流を教えていた「試衛館」の跡地を訪ねるつもりでした。所が、所在がはきりしません。小石川周辺のどこからしいのですが、小石川小日向町、小石川柳町、牛込柳町・・とか諸説が林立しています。

 となると好きな作家が書いている説を頂くことにしました。司馬遼太郎は「燃えよ剣」で、小石川柳町の坂の上にあったと記述しています。それで、旧町名で柳町を捜すと、現在の文教区立柳町小学校の周辺だとわかりました。次に、安政年間の江戸切り絵図でこの当たりを調べると、伝通院の裏門の出入り口に小石川柳町がありましたね。行ってみてなるほどここか、と思いました。今も昔もカラスの多い土地です。近藤道場はカラス道場と陰口を叩かれる、実に流行らない殺風景な道場でした。

 歳三をランナーと見ると、関連する記述が「燃えよ剣」には数多く見受けられますよ。例えば、「歳の鬼足。といえば、日野宿かいわいで・・・。この男の足は鬼のように迅い」「沖田、知らねえのか。足の達者な者は知恵も達者、というほどのものだ」、こんな調子ですね。この歳三が伝通院の裏門、線香臭く陰気な土地で30歳を目前にして、試衛館の将来を経営コンサルティングしていました。いくら知恵を捻っても近藤道場は経営破綻しか道がありませんでした。

 <千客万来の日本スポーツ・ボランティアソシエーション>  藤田 俊英 (02/05/23)





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