コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.182

関ヶ原合戦から400年、新戦国女街道はウルトラ走者が<愛致>駆け
 400年前は慶長5年の九月16日午後2時、関ヶ原の合戦の覇者、家康は三成の居城である江州佐和山城を目指していました。関ヶ原からは旧中山道を、今須、柏原、醒ケ井、番場を経て鳥居本の宿場が佐和山の城下町でした。現在は東海道本線の彦根駅の山手方向で、新幹線と名神高速が城跡近くをブっ飛ばしています。

 試走会の最終ステージ30キロのラスト1キロは、桑名城跡に繋がる八軒通りを南下して、本多忠勝の銅像にたどり着きます。これで、予定の試走コースを完走しました。敦賀〜長浜〜大垣〜桑名の総延長120キロの内、80キロを試走したことになります。いつの間にか、雨が上がっています。

 88年の6月から三重県桑名市、岐阜県大垣市、滋賀県長浜市、福井県敦賀市と4市役所の企画課を訪問して、<新戦国女街道プラン>を説明しました。当初は、この120キロを自転車で競うバイクレースを考えていました。NHKがサンディスポーツスペシャルで<ツールド・フランス>を紹介したり、国内でも<ツールド北海道>が始まっていました。

 中部通産局の商工部長から委嘱されて<都市交通と自転車>と題する調査研究の委員を勤めていました関係で、日本自転車振興協会とかいろいろと、関係先を当たりましたが、なんせ4県、3地方(北陸、近畿、東海)を股に駆ける120キロの自転車レースは、話がデカ過ぎたようで、全く実現の可能性が見当たりませんでした。

 と言うことで、ニューメディアが喧伝されていた時代の<新戦国女街道プラン>は消滅しました。バブルが弾けて、時が流れます。マルチメディアが勃興し、eビジネスが新規産業を誕生させ、IT革命が総理大臣に乗り移る時代が到来しています。自転車が駄目なら、走ったら良い。こんな簡単な事にやっと気が付いて、まず自分で120キロ走れるようにします。

 <新戦国女街道/アーバンツーリズム走談 走り屋・道楽衆 藤田 俊英> (00/09/21)




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