コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.177

関ヶ原合戦から400年、新戦国女街道はウルトラ走者が<IT>駆け
 400年前は慶長5年の九月14日朝、家康は夜明けと共に岐阜を出発し、美濃赤坂に向かいます。途中の長良川には、鵜飼い舟70艘を集めた臨時の浮き橋が架けられていて、その上を3万2千の直轄軍が楽々と渡りきりました。家康は安物の駕籠に乗って、正体を隠しています。まだ西軍は、家康が目と鼻の先に来ていることに気付いていません。正午、赤坂の前線指揮所である岡山頂上の二階建て本営に到着です。

 階上から、南の方向に美濃平野の向こう十キロかなたに大垣城が浮かび上がっています。家康は、一斉に馬印、旗さしものを立てさせます。三つ葉葵のご紋が、遠目からでも目に入ります。大垣城にいた三成は、<家康来る!>の報せを受けて、<んなアホな〜、来れるわけがないやろが!>と容易に信じませんでした。机の前にへばりついてばっかりの三成には、スポーティ・アスリーター家康のエアロビクスな運動表現が全く、理解できていませんでした。日本のインテリは、いつもそうですけれど。

 杭瀬川を挟んで、東西両軍の小競り合いがあったりして、日が暮れます。夕餉を取った後に、軍議が始まります。目の前の大垣城を攻めようとする意見が大半でした。そこで一発、後に桑名の町割りを仕上げ、銅像となって桑名市民から慕われている本多忠勝が、<NOT大垣城、BUT大坂城>と老練さが丸出しの檄を飛ばします。んで家康が、<明日ここを立って、大坂に向かう。途中、近江佐和山の三成の城を潰して行く>と、大演説をぶって軍議は幕を閉じます。

 本日14日の日経新聞朝刊1面の<春秋>欄に、合戦関ヶ原の一席が掲載されています。この作者は、関ヶ原の合戦に現在の公共事業、農業改善事業のバラマキ行政をおっ被せてインテリっぽいコラムに仕上げています。まあ、家康が日本初のスポーツアスリーター、エアロビクス・エクササイズの実践者であったことは丸で、ご存じないでしょうね〜。

 15日〜16日と関ヶ原周辺を、400周年前を偲びながら走ります。本日、コース下見をしてきました。関ヶ原バイパスは、三成の陣地である笹尾山の真下をトンネルでブチ抜いています。

 <新戦国女街道/アーバンツーリズム走談 走り屋・道楽衆 藤田 俊英> (00/09/14)




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