コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.176

関ヶ原合戦から400年、新戦国女街道はウルトラ走者が<愛智>駆け
 400年前は慶長5年の九月13日朝、家康は清洲を発し、夕刻に岐阜城に入り、城下に泊まります。直轄の3万2千人の大軍が旗印を翻しつつ、従っています。上方で挙兵した、毛利輝元を総帥とする西軍との天下分け目の合戦が静かに幕を開けようとしています。家康は、当時のあばら屋な江戸城を9月1日に出立しました。東海道の宿場はことごとく人馬で満ち満ちていました。

 9日、三河岡崎着。10日、尾張熱田着。11日、清洲城着。と1日当たり十里弱のフルマラソン距離に近いペースで進軍しています。清洲城で、美濃赤坂の最前線から戻った参謀の本多忠勝、井伊直政らと夜更けまで軍議っています。この当たりで家康に疲れが出たのでしょうか、夜半から風邪を引き、熱が出ました。さすが家康ですね。12日は、終日に渡り清洲城で休養に努めています。

 大した症状でなかったんですが、家康の用心深さですね。いざ、決戦で指揮官が風邪のために思慮判断を狂わせては、合戦に勝てません。大垣城を本拠地としている西軍は、家康のアスレティックな行軍を、まるで予想していません。自分たちのノロっとした軍事スピードで相手の行動を推し量る愚をしでかしています。家康が目と鼻の先の清洲城に来たことを、まるっきり知っていませんでした。

 15日と16日、<桑名〜大垣〜関ヶ原〜長浜〜敦賀=120キロウルトラランニング>の試走を予定しています。15日は桑名から伴走車で敦賀に向かい、気比の松原を出立し、峠を越えた近江塩津の駅まで第1試走をします。ここで車に乗って、大垣まで行き、芭蕉が<奥の細道>を終焉させた縁の地点で、下手な俳句を詠みます。関ヶ原バイパスを経由して、伊吹山スカイライン入り口まで第2試走です。

 400年前の9月15日、東軍が勝ち鬨を上げた頃、その地を平成のウルトラランナーが、足軽雑兵によく似た姿で走ります。現在の東京プロブレムの発端は、400年前の9月15日の家康勝利です。<IT>蠢く新戦国時代が到来しています。旧戦国時代の覇者である家康のランニング・アスレティックな<愛智>は、ユックリ走る事で偲ぶことができます。

 <新戦国女街道/アーバンツーリズム走談 走り屋・道楽衆 藤田 俊英> (00/09/13)




前のページへ戻る