コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.162

大江戸天下・町人マラソン創設/家康が江戸シティセールス 第8幕
 葛飾若手産業人会議「若手ドッと混む」、瀧澤一郎さんの疑問にお答えします。
「おいでやす江戸!ですか・・・何故「江戸」なのに「おいでやす」という京都弁なのか?おやっと思わせますね。東男に京女?」
<Yes!TOKYO>を慶長5年当時の天下標準語で言いますと<おいでやす!江戸>となります。当時の江戸は、今のようなシャキっといた東京弁はなく、西から来た商人、職人、芸人らが間の抜けた関西訛りの大声を張り上げていました。「側室はどこからお連れしたのでしょうね?」
 <江戸城の西方一里余り、渋谷川の淀んだ場所に美都婆麗と呼ぶ機織りの里がありました。そこのガングロでアスレティックな織り姫さんを家康が側室としました。

雑誌<CONGRESS&CONVENNTION>の第1四半期号は、Yes、Tokyo!を特別企画。都知事のメッセージ、<東京シティセールス推進大会レポート>、推進協議会会長の稲葉・東商会頭の挨拶に引き続き、TCVBの小竹専務理事の<実行計画>が掲載されています。キャンペーン2大柱の<ビジターを歓迎するまちづくり>の具体的な事業内容は、ウェルカムカードの作成、観光情報提供の充実強化、ボランティアのネットワーク化、空港からのアクセスの改善の四つです。ウェルカムカード以外は特段の目新しい事業内容ではありません。となると、このカードって何なんでしょう?

 関ヶ原の合戦後に桑名15万石の城主になり、翌年の慶長6年から桑名「慶長の町割り」に着手した家康三傑の一人、本多忠勝は400年前の今日8月22日は、岐阜城の攻撃の真っ最中でした。井伊直政とともに、美濃地方に先発した東軍の軍監を勤め、福島正則や池田輝政らの豊臣恩顧の大名たちを巧く手なずけていました。23日に岐阜城が陥落したとの報せが、江戸城の家康に届いたのは27日のことでした。

 家康の江戸入府は天正18年(1590年)で、それから10年経過した江戸ですが、秀吉が亡くなってから急に、<次の世は家康だ>、と目先の利いた職人や商人や芸人が天下各地から集まって来て、<江戸の町割会>なる町人活動ネットワークが自主結成されました。新興の江戸で一旗揚げる!、そんな意気込みの町人起業家が、続々と江戸に流れ込んでいます。ほとんどが、男たち。<家康の天下統一>を信じて疑っていません。<天下の覇都になる江戸>のマチワリに名を残したい!男ですね〜。

 慶長5年8月二十日の夕暮れ、家康と<江戸の町割会>の世話人たちとが、<江戸商売繁盛・家内安全シンポジウム>を神田の浜辺で共催中です。自主財源な町人活動<町割サポート事業>に採用されたプロジェクトの内容の紹介が終わり、これらの実現に向けての具体的な活動プランの話し合いに移りますが、残念ながら一介の町人の身分では、数百年を見据えた<江戸産業振興ビジョン>を貫くポリティックな思想・哲学は語れません。家康の出番です。関ヶ原よりも江戸の産業振興の方が重要との認識を持つ家康は、<おいでやす!江戸>のキャンペーン・コピーで、新都な江戸を<天下一の千客万来な交流町場>に町割って、「我が江戸の活気と魅力を天下にアピー ルしたい」と満場の席を湧かせました。

 <都市観光マラソン/トキメキ歴史商会 走り屋・道楽衆 藤田 俊英> (00/08/22)




前のページへ戻る