コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.161

大江戸天下・町人マラソン創設/家康が江戸シティセールス 第7幕
 その手は桑名の<焼き蛤>で有名な伊勢桑名は、なぜか伊藤さんと水谷さんの多い町です。そんな桑名の水谷さんから、関ヶ原の合戦に因む<焼き蛤>な故事の紹介です。〜家康が関が原で勝ったという一報を聞き、とにもかくにも大急ぎで関が原に駆けつけ桑名の蛤を献上したものがいる。家康多いに喜び、一筆書き添えてその者に手渡す。そこには、「桑名の蛤をその者が多いに扱うべし」なる貴重な許可証。これをもって家業に多いに励む。やはりしぐれやの祖先は商売屋、機を見るに敏とはこの事なり〜、この話からも、家康が産業振興ビジョニストであったことが明白ですね。

 雑誌<CONGRESS&CONVENNTION>の第1四半期号は、Yes、Tokyo!を特別企画。都知事のメッセージ、<東京シティセールス推進大会レポート>、推進協議会会長の稲葉・東商会頭の挨拶に引き続き、TCVBの小竹専務理事の<実行計画>が掲載されています。キャンペーンの2大柱は、<誘致プロモーションの展開>と<ビジターを歓迎するまちづくり>です。ビジター誘致とかコンベンション誘致とかタイアップ・プロモーチョンとかを並び立てた<誘致プロモーションの展開>よりも、<ビジターを歓迎するまちづくり>の中身が面白そうですね。

 関ヶ原の合戦後に桑名15万石の城主になり、翌年の慶長6年から桑名「慶長の町割り」に着手した家康三傑の一人、本多忠勝の銅像が桑名城跡・九華公園の入り口に新しく据えられています。東海道唯一の海路である七里の渡しの渡船場はこの近くにありました。後に、幕末の戊辰戦争で徳川幕府側で最後まで新政府軍と戦ったのが会津・桑名の両藩です。会津の鶴ヶ城には観光客がゾロっと訪れますが、桑名の城跡には、観光客はいません。もっぱら、長良川・揖斐川の向こう岸の<ナガシマ温泉>が全国からの観光客を一手に引き受けています。21世紀を迎える西暦2000年の今、平成のまちづくり「桑名ルネサンス」が<東海道宿駅制定>と<桑名開府>の四百 年記念事業として始まりました。

 家康の江戸入府は天正18年(1590年)です。家康は住み慣れた三河遠州から、家臣共々に人跡まばらなド田舎の江戸にやって来ました。そんな江戸ですが、秀吉が亡くなってから急に、<次の世は家康だ>、と目先の利いた職人や商人や芸人が天下各地から集まって来て、<江戸の町割会>なる町人活動ネットワークが自主結成されました。新興の江戸で一旗揚げる!、そんな意気込みの町人起業家が、続々と江戸に流れ込んでいます。ほとんどが、男たち。女の姿は、町場には希でした。

 慶長5年8月二十日の夕刻、50歳代後半の家康と<江戸の町割会>の世話人の鯔背な若衆起業家たちとが、<江戸商売繁盛・家内安全シンポジウム>を神田の浜辺で共催します。日が沈み、篝火が焚かれ、それを目当てに仕事を終えた町人たちが腰を下ろしています。いよいよ開演です。<江戸の町割会>世話人代表の鮮魚商、一心太助がビシっと仕切ります。<江戸の町割会>の自主財源な町人活動、<町割サポート事業>に採用されたプロジェクトの内容が紹介されます。関ヶ原の事より、江戸の産業振興の方が重要との認識の家康は、<おいでやす!江戸>のキャンペーン・コピーで、新都な江戸を<天下一の千客万来な交流町場>に仕立て上げ、「我が江戸の活気 と魅力を天下にアピールしたい」とヒソっと考えていました。

 <都市観光マラソン/トキメキ歴史商会 走り屋・道楽衆 藤田 俊英> (00/08/21)




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