コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.160

大江戸天下・町人マラソン創設/家康が江戸シティセールス 第6幕
 先週の月曜日の新聞報道でした。森首相が、ラグビー全日本の平尾監督と対談されたそうです。「世間じゃ〜、知育、徳育、体育の順で教育が必要となっとるが、私の考える必要な順番は体育、徳育、知育で、平尾監督と意見が一致した」、徳育とかで私が語る資格はありませんが、体育大国のアメリカがIT先進国家であることからも、まず体育の充実がITな大東亜戦争を勝ち抜く豊かな地域力の基礎だと思います。光ファイバーとかパソコンの普及とか慌てていますが、そんなもんは、携帯モバイル端末の普及がアっと言う間に進んで解決します。

 雑誌<CONGRESS&CONVENNTION>の第1四半期号は、Yes、Tokyo!を特別企画。都知事のメッセージ、<東京シティセールス推進大会レポート>、推進協議会会長の稲葉・東京商工会議所会頭の挨拶に引き続き東京コンベンション・ビジターズビューローの小竹専務理事の<実行計画>が掲載されています。それよりも次の文面が注目に値しますね。「世界の代表的な都市は、住んでいる人々と訪れる人が相半ばする。むしろ、外から訪れる人の数がの方が多いまちこそ、世界都市の名に相応しい」

 かっての<エースのジョー>こと宍戸錠さんが、<葵徳川三代>で家康の家臣・徳川三傑の一人、本多忠勝を豪放に演じて好評です。この忠勝が、関ヶ原の合戦後に桑名15万石の城主になり、翌年の慶長6年から桑名「慶長の町割り」に着手しています。同じ頃、家康が東海道宿駅の伝馬制を布きます。唯一の海路である七里の渡しの渡船場があった桑名は、53次の中でも特徴ある宿場としても発展します。21世紀を迎える西暦2000年の今、平成のまちづくり「桑名ルナサンス」が<東海道宿駅制定>と<桑名開府>の四百年記念事業として始まりました。

 家康の江戸入府は天正18年(1590年)で、今年が江戸開府410年になるわけです。小田原征伐時の秀吉と家康が連れションの途中に、決まった事です。家康は住み慣れた三河遠州から、人跡まばらなド田舎の江戸にやって来ました。そんな江戸ですが、秀吉が亡くなってから急に、<次の世は家康だ>、と目先の利いた職人や商人や芸人が天下各地から集まって来て、<江戸の町割会>なる町人活動ネットワークが自主結成されました。

 慶長5年8月二十日の夕刻、ガングロ化粧に甚平姿の若い側室たちを引き連れた家康が、神田の浜辺に出向きます。待ち受けるは、<江戸の町割会>の世話人の鯔背な若衆起業家たちです。なんせ男ヤモメばかりで、若い側室たちの甚平から出た柔肌に視線が集中しますが、代表の鮮魚商、一心太助がビシっと仕切ります。<江戸の町割会>の自主財源な町人活動、<町割サポート事業>に採用されたプロジェクトの推進について、家康と今から談判が始まります。関ヶ原の事より、江戸の産業振興の方が、家康にとっては重要とお見かけいたします。<おいでやす!江戸>、このキャンペーン・コピーを家康と本多忠勝が昨夜二人して編み出しています。

 <都市観光マラソン/トキメキ歴史商会 走り屋・道楽衆 藤田 俊英> (00/08/20)




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