コラム道楽衆:「走談家・藤田の胸算用」 No.063

起業スピリッツな土佐の馬路村、自然栽培ユズがチャレンジ・ビジネス
 昨夜3月21日、10時からの「ニュースステーション」で、村起こし特集「小さな村からユズで全国展開ビジネス・・高知・馬路村、成功の秘訣に学べ」が放映されました。自然栽培のユズを使った独自開発商品を直販で、馬路村農協と千三百人の村民が年商20億のチャレンジ・ビジネスに育て上げた経緯が紹介されていました。 この馬路村は、実はフルマラソンを開催する日本一小さな行政体です。「おらが村心臓破りマラソン」と名付け、毎年9月に開催され全国から根強い固定客を確保しています。過去3回参加しています。平成9年の大会模様と関ケ原合戦を、建設業界紙に掲載しています。千六百文字ですが、東京都下の奥多摩や離島のチャレンジビジネスを考える上での参考として下さい。

 <走り屋・道楽衆 走談家 藤田 俊英> (00/03/22)


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日刊建設工業新聞 平成9年10月22日「所論緒論」掲載

 「土佐の国、馬路村は秋雨に濡れ、関ケ原合戦を思ふ」

          シビック・騎馬武者 藤田 俊英

 初秋の頃、二週続けて山道を駆けた。英国の元皇太子妃の葬儀の週末は、東京学芸大学が主催する越後湯沢の走り込み合宿に参加し、岩原スキー場の夏のアスリーター利用を見た。二十歳すぎの学生から七十歳すぎの方まで、高速と低速のランナー男女32人が集まった。敬老の日の前日は、新宿からハイウェイバスを利用して、高知県の安芸郡馬路(うまじ)村で開催された「第七回おらが村心臓やぶり・フルマラソン大会」を肝走した。

 村民千三百人が、カモシカ四百六十頭らと一緒になって、前夜祭から遠来の来客走者を歓迎してくれる。地元婦人会の手料理の山菜すし、山賊鍋、川魚焼き等に舌鼓を打つ。農協味自慢は焼酎を特産の柚子蜂蜜飲料で薄めた「ごっくん割り」に、肝臓は破れそうだ。台風19号の接近で秋雨煙る中、六百人を越える走者が魚梁瀬ロックフィルダム頂を最高とする最大標高差二六〇mの馬路道に挑んだ。娘ランナーのピアスから銀の雫が落ちる。

 高知城の追手門をくぐり天守閣に向かう途中で、板垣退助と山内一豊の妻の銅像に出会う。両方とも立像で、右手を斜め前方に上げている。一豊の妻の横には件の馬も寄り添っている。一豊自信の像は城内の県立図書館の脇に、騎馬武者姿として屹立している。

 敬老の日は、関ケ原合戦の日でもある。慶長五年9月15日、西美濃の関ケ原に東西合わせて16万の兵が集結した。夜来の秋雨が止み、立ち込めた霧が晴れた午前8時、東の赤揃え軍団井伊直政隊の射撃から合戦の火蓋は切られた。勝利は東軍を率いた家康の掌中に落ちた。東軍に属した一豊は、この日さしたる軍功は無かったが、妻からの編笠の緒に巻き付けた「こより」の上方密書と掛川城を家康に献上した功で、土佐20万石を得た。

 NHKテレビは、火曜日の午後十時から「堂々日本史」で関ケ原合戦の特集を数回放送している。高齢少子時代を迎え、なぜか家康に注目が集まり出した。小学校の頃、紙芝居で真田十勇士の活躍に一喜一憂した記憶から、家康には「狸じじい」の印象が強かった。「覇王の家」の中、司馬さんが、「スポーツは健康にいいということをおそらく日本史上で最初に知ったかもしれない人物で、鷹狩りなどもその必要からのものであり、」と語っているのを見かけてから、ヘルシー・アスリーター家康のイメージを膨らませた。

 中部山岳地帯には、伊吹山を頂点として広がる大三角形のあることが修験者に知られていた。その一辺は、伊吹山から冬至の日の出を拝む方向に、遠江の国は御前崎を望む。岬から、家康の年代順に、30代の三方ケ原と長篠の戦い、40代の小牧・長久手の戦い、50代最後の関ケ原合戦と伊吹山に近づいて来る。まさに、家康の「地図に残る仕事」である。また、先祖松平氏の発祥の地、奥三河山中の松平郷も、一辺上、今の豊田市域にある。

 29才の家康は、姉川の戦いに参戦した時、始めて伊吹を見た。言い伝えられた大三角形を思い出し、その頂上を目指した。途中、山腹で豊富な薬草を採集もしたろう。頂上から松平郷を経て、居城である浜松の方向を見渡し、「鷹狩りで健康を保ち、この方向に沿って伊吹山に近づく戦場で勝利を重ね、領地を得よう!」と決意したかもしれない。軍神・信玄翁に真っ向から合戦を挑んだ三方ケ原の戦いの覇気は、その現れと解釈できる。若き日の家康の得意技は総大将自らの馬上指揮で、一つ覚えの専門わざと伝わっている。

 合戦を終えた夕方4時、冷たい秋雨が降り始め、家康は霧に包まれた伊吹を見上げた。75歳の往生後、東照大権現として、伊吹から夏至の日の出の方向の日光に祀られた。





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